最高裁判所第一小法廷 昭和42年(あ)2188号 決定 1968年2月08日
主文
本件上告を棄却する。
理由
<前略>
同第二のうち、判例違反をいう点は、引用の昭和三五年(う)第四七二号、同年一二月八日仙台高等裁判所判決は、ポリグラフ検査結果回答書の証拠能力についてはなんらの判断も示していないものであるから、所論は前提を欠き、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、いずれも上告適法の理由に当らない(ポリグラフの検査結果を、被検査者の供述の信用性の有無の判断資料に供することは慎重な考慮を要するけれども、原審が、刑訴法三二六条一項の同意のあつた警視庁科学検査所長作成の昭和三九年四月一三日付ポリグラフ検査結果回答についてと題する書面〔鈴木貞夫作成の検査結果回答書添付のもの〕および警視庁科学検査所長作成の昭和三九年四月一四日付鑑定結果回答についてと題する書面〔鈴木貞夫作成のポリグラフ検査結果報告についてと題する書面〕添付のものについて、その作成されたときの情況等を考慮したうえ、相当と認めて、証拠能力を肯定したのは正当である。)
<中略>
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員の一致の意見で、主文のとおり決定する。(松田二郎 入江俊郎 長部謹吾 岩田誠 大隅健一郎)
弁護人曽我部東子の上告趣意
<前略>
第二、原判決は、仙台高裁昭和三五、一二、八判決(昭和三五年(う)第四七二号)(同上告事件につき同三七年六月一〇日上告棄却決定のなされた)と相反する判断をなしているが、右判例こそ支持さるべく、原判決はこの点において破棄を免れないものと思料する。
即ち、右事件は、被告人が郵便局員として勤務中現金封筒等を窃取したもので捜査の結果、自宅から封筒など証拠物の押収された事件のほか、全面的に否認し現金抜取の五件については、抜きとつた封筒は糊づけして配達されており、直接的証拠がなく、状況証拠とポリグラフ検査書により起訴され、検査者が証人出廷したもので、一審では、これを全面的に認定して判決したが、被告人は控訴し、控訴審においては、ポリグラフ検査の結果ならびに状況証拠のみで原審が認定して有罪とした五件の現金抜取りの事実を否定し、原審が認定に引用したポリグラフ検査書および、検査者の公判廷における供述等を認めなかつたもので、最高裁においても、この判決を支持し、結局、ポリグラフ検査書の証拠能力等について、右高裁判決の態度を支持した形で棄却確定となつているのである。
ところで原審は、ポリグラフ検査書の採否につき「原審において検察官が刑事訴訟法第二三一条第四項所定の書面として、その取調べを請求し、被告人側においてこれを証拠とすることに同意したものであり、且つ所論(三)の証拠すなわち原審証人鈴木貞夫の供述に徴し、各書面は、いずれも検査官が自ら実施した各ポリグラフ検査の経過及び結果を忠実に記載して作成したものであること、検査官は検査に必要な技術と経験とを有する適格者であつたこと、各検査に使用された器具の性能及び操作技術から見て、その検査結果は信頼性あるものであることが窺われ、これによつて各書面が作成された時の情況に徴し、所論ポリグラフ検査施行状況の録音テープの取調をなすまでもなくこれを証拠とするに妨げないものと認められるので、同法第三二六条第一項所定の書面として証拠能力がある」との見解を示し、「その内容において、前掲被告人の自白及び証人池田タツエの各供述の信憑性を裏付け、前掲(四)乃至(一七)の証拠と相まつて原判示事実を肯定するに足りるから原判決がこれらポリグラフ検査の経過及び結果に関する各証拠を事実認定の資料に供したのは毫も違法ではない」と判示している。
もとより、同趣旨の判例がないわけではない。(東京高裁、昭和三六年(う)第一、六六六号、昭和三七、九、二六刑一部判決は同趣旨)しかしながらポリグラフ検査は、経験的に発達し、日々技術が向上し、発展の途上にはあるが、理論的には研究に欠けるものがあつて未完成というべく、捜査段階での活用は日を追つて活発化されているもののようであるが、裁判上、ポリグラフ検査結果に証拠能力を認めることは危険極りないものと考えられる。即ち、ポリグラフ検査結果の正確性を保証するためには、被検査者の意識が明瞭であること、その心身が健全な状態にあること、質問表の作成と質問の方法が合理的であること、検査者が特定の基礎知識と訓練を受けている者であること、質問以外の刺激、影響のないような場所で検査が行なわれることが必要であること、その他の諸条件が十分守られることが必要であり、検査後他の専門家がポリグラフ検査記録を検討して前になされた判定の正確性を判断することは検査がどのような条件のもとに施行されたかを正確に把握していない以上不可能であるとされて居る。従つて正確性を十分保証することも不可能であるポリグラフ検査の結果を被告人の供述の信憑性に関する証拠とすることは被告人の人権を侵害するもの、との誹りを免れないのである。殊に原判決は、検査官が、検査に必要な技術と経験を有する適格者である、とするのであるが、ポリグラフ検査は検査官の経験にその良否が依存する検査であつて常に検査を行なつていないと技術は萎縮してしまうといわれて居り、適格者であるとの一事を以つてしては、検査結果の信頼性を断定出来ないのである。また、良好な結果を得るためには、質問資料のある初期の段階(捜査上)でなすべきものとされているのである。
右のように、ポリグラフ検査結果を証拠として採用するには、幾多の問題が存するが、これに加え、本件被告人の場合、検査結果の信頼性を疑わしむる左記事情が介在するのである。即ち
① 被告人は、当時妊娠中であり、悪阻りがひどく、十日程満足な食事をして居らず、臥せたままであり、検査室にかつぎ込まれ、検査中も吐き気に襲われる、という最悪の状態にあつたものであり、被検査者が疲労していても適当でない、とされる検査をかかる状態の被告人は実施しても良好な結果が得られる筈はない。
② 証人鈴木貞夫は、検査の際、検査者と被検査者のみで実施した、と証言しているが、衝立のかげに葉梨郵政監察官が居り、検査に立ち会つていたのであつて、同監察官は被告人は自白を強制した問題の人物であり、その立ち会いの被告人に与えた影響は無視出来ぬものがある。
③ 検査回答書には、「亡失した米穀通帳は、その後和箪笥の後側から発見された、被検査者に知らされていなかつたので裁決質問として選定した、これについて被検査者に対して検査前面接において確めたところ、まつたく知らないと申したてたので検査した」と記載されているが、被告人が検査当日まで米穀通帳の発見された事実を教えられていなかつたことは間違いない。しかし問題は、検査前面接の際、検査官から米穀通帳の発見されていることを知つているか、和箪笥の後側から発見されたと話され、検査直前に、この事実を知つたということである。その上で米穀通帳が池田家の和箪笥の後側から発見されたことを知つているかと聞かれ「知らない」との回答をしたところ虚偽であり認識を有していることが認められた、ということになつている。しかし、このような場合、被告人は知つていると言うべきか、検査官の話を聞くまで知らなかつたのであり、且つ見聞したのでないから知らない、と言うべきか、被告人は迷つた末、見聞していないのだからと判断して知らない、と答えている。しかし、その際のためらいは、反応として現われ、認認していることを物語つているから回答は虚偽と出たのである。かかる判定が信頼性あるものと言いうるであろうか。
④ 同じようなことは、他の綿入れの回数、定額証書の問題、代筆の問題についても言い得るのである。即ち、被告人は、昭和三九年二月一四日、はじめて葉梨監察官の取り調べを受けた時からポリグラフにかけてほしい、と希み、繰り返し要求したが、何故かこの時は受け入れられず、捜査が一段落し、状況が固つた後に、はじめて検査を実施したのである。ポリグラフ検査は初期にやるべき、との鉄則は守られていないのである。凡らく、初期に実施されていれば、ポリグラフ検査結果は、被告人の無罪証明に役立つ結果が出たものと考えられる。何故なれば、被告人は、ポリグラフ検査までの間に、自分の記憶では綿入れは四回だが、池田タツエは二回と言つていること、定額証書は、自分の家に池田タツエが持つて来たのだが、池田タツエは否定していること、定額証書は窃取したものではなく裏書きは代筆したものであるが、池田タツエは否定していること、をすべて知らされていたのである。従つて各質問につき回答するに当つては、質問が、事件の核心をなすものではないかと極度に筋張し、池田タツエの言い分を念頭で反芻しながら自己の経験を回答することになり、かかる情況下で反応の出ることは必然的であり、よほど知能指数が低いか精神病ででもない限り、無反応であり得る筈がない。即ち、検査の時期が当を得て居らず、適性な、信頼性のある結果は出ていないのである。
⑤ なお、池田タツエについては、ポリグラフ検査の結果、特別の反応がなく、回答が真実と認定されているのであるが、後に代筆依頼の有無に関し詳述するが、同人は、法廷で現場図面を書かされても、容易に書き得ず、長時間をかけてなお不完全、しかも茶箪笥、襖二枚の説明も、文字に迷い、漸くひら仮名で書いたが、これまた不完全、という程度で、一見して知能の程度の低さが伺える人物である。ところで、ポリグラフ検査は、知能が低い、と思われる場合には実施すべきではない、とされているが、要は、実際例からみて、ある場合には、知能指数が六〇程度であつても十分検査が可能であつた例もあるものの、八〇程度でも検査に成功しない例もあり、いずれにしても、知能の低い場合は、すべての質問に対して反応が微弱で判定が困難だということである。しかも、知能程度についての明確な基準は将来の研究にまつほかない、とされ、対策もなく、又、検査に先立ち知能テストを実施することもしていない、とすると、池田タツエのケースの如きを裁判所は常に念頭において、ポリグラフ検査結果の証拠能力を判断せざるを得ないことになるであろう。
以上、要するに、少なくとも本件に関する限りは、ポリグラフ検査結果に証拠能力を認めるべきでなく、これは、被告人の場合はもとよりであるが、池田タツエについても同様というべきである。殊に池田タツエの場合、検査結果により、同人の供述の信用性が倍加され、心証形成に大きな影響をもたらせているだけに、同検査結果の採否は、判決に及ぼす影響が大であると言うべきであり、無視出来ないのである。<後略>